当初は試作・テストのみという条件でスタートしたMIだったが、ここまで来ると生産してみようという欲が出てくる。三十五年になって、名古屋製作所ではバス、二十七年からライセンス生産しているジープ、大ヒットしたスクーターのシルバーピジョンに加え、このMIを生産して事業化すべく、事業目論見を東京の本社に提案した。それによると、三十四年秋の東京モーターショーに発表、三十五年四月発売で、生産台数(販売も)は三十五年度で月産五〇〇台、三十七年以降一〇〇〇台、売値はスタンダードモデルで三八万円、三十七年下期以降黒字、四十年に累計赤字も解消して以後黒字という大要であった。三十四年五月、東京で藤井社長以下全役員に試作車をみせた結果、生産・販売が本決まりとなり、生産車の社内呼称はA10、市販に際しては「三菱500」とすることも決定された。A10は当初の予定どおり、三十四年秋の東京モーターショーで初のお目見えとなったが、それに先立って行なわれた報道関係への発表会の席上、吉田義人社長は「新三菱は乗用車メーカーの仲間入りをさせてもらう。名古屋の工場で小型車生産に乗り出す」と、きわめて控え目にあいさつした。しかし、三菱が乗用車の生産・販売に乗り出したことへの反響は大きく、それはモーターショーでさらに盛り上った。「国民車時代の先端をいく三菱500」(朝日新聞)、「夢を呼ぶ自動車ショー・焦点は国民車」(朝日新聞)、「乗用車ニューフェース、ミニカー時代の観」(日刊自動車)などの見出しが紙面に躍った。マスコミや実際に買ったユーザーからも好評の声が聞かれ、発売当初は計画の月販五〇〇台を上回るまずまずの滑り出しだった。当時の水準とすれば、三九万円というかなり安い価格設定も、販売に寄与したと思われる。しかし、それも束の間であった。ボデーデザインもインテリアもそっけないほどの簡素さが、商品としての魅力を欠いていたことに加え、販売体制が弱いなど、当初の懸念が現実となって、売行きのほうは徐々に落ちていった。しかも翌年、強力なライバルであるトヨタ・パブリカの出現によって、ますます困難な状況に追いやられ、乗車定員を五人にふやし、内外装に手を加えたスーパーデラックスや排気量をアップしたコルト600をもってしても、人気を盛り返すことはできなかった。
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